【イニシエ】



―――彼らは、いつからかそこにいた。

誰もが、いつからだったか、覚えてもいない。
ましてや、出会った時の事さえも、覚えていなかった。



昔。誰も知らないほど、遠い昔。
3人の神が生まれた。


全てを生み出す海が生まれた。

全てを包み込む空が生まれた。

全てを生かす大地が生まれた。


…全てはひとつとなり、そして、世界が生まれた。


太陽と月は、三人を祝福し、そして、それぞれに名前を付けた。
海の神、レーベルフィーネ。
空の神、イアリストゥル。
大地の神、アダマーサ。


…そして世界は、回り始めた。


それは、いつのことだったろうか。
誰も知らない、遠い昔のことだった。




「じいさん!水汲んできたぜ!」

「いつもすまないねぇ。アダム。」
「いいって。お世話になってる、せめてものお返し。」
とある村。
年の頃は、十七か十八辺りだろうか。
少年よりも青年と言えよう彼は、両手に水いっぱいの桶を持って、
家の前に立つ老人へと人懐っこい笑みを浮かべた。
青年の髪は、植物のよく育つ土の色。
それは肩辺りまで伸ばされ、つんつんとあちこちへ撥ねていた。
所々に混じった金色の髪が、陽光をはね返し、微かに眩しささえも覚える。
軽く吊り上がったその目は、よく育った草の色。
深緑のような、深く、濃い緑。
『どこまでも見透かしてしまうのではないだろうか。』
…どこか、そんな色さえも持っていた。

「そうそう。川に、イアとフィーネがいたんだ。珍しいよなぁ。」

老人の髪は、もうほとんどが白くなっていた。
青年の笑みにつられるようにして笑むたびに、顔の皺が深くなる。
…そんな彼の妻は、すでにこの世を他界していた。
「ほぉ。あの二人がかい?」
「うん。それで、ごめんな。二人と話してたら、遅くなっちゃって。」
「いいんじゃよ。アダム。子供のうちは、仲間と遊んでおくべきだからね。」
「何だよそれー。俺、もう子供じゃないから!」
アダムの言葉に、老人は声を上げて笑った。
アダムは言葉にしないけれど、そんな老人も、老人の笑顔も、大好きだった。

「ワシにとっては、君はまだ、子供じゃよ。」

老人がそういい、空を見上げる。
つられるようにして、アダムも空を見上げた。
所々に綿飴の様な雲が存在している。
今日は快晴だと、村の誰かが嬉しそうに言っていた。
空から視線をはずして周りを見渡せば、
紅葉した木々と、草花と、実りを迎えた畑の植物。季節はすでに、秋を迎えていた。
二人はもう一度空に視線を戻すと、今度は太陽の位置を確認した。
…太陽はすでに、十二時を少し過ぎた辺りの位置で、きらきらと輝いている。

「…そろそろ、お昼にしようかね。」

「………。そうだな。俺、腹減ったよー!」
どうせだから、フィーネちゃんやイア君も呼ぶかい?
アダムの持っていた桶をひとつ手に取り、家の中に入りながら、老人はそういった。
それに、アダムは慌てて首を振る。
「いや、あの二人は、もうご飯食べ終わったみたいだったから。」



水を汲みに行った川で、二人に出会った。

一人は、腰の下辺りまでの、ウェーブのかかった桃色の髪をした女性。
年の頃は、アダムと同じくらいだろうか。
淡い珊瑚の様な色をしたそれに合わせるようにして、瞳は海のように深い青だった。
唇は、赤。きっちりと口紅が塗られたそれは、
彼女の顔を、一層端正で、艶やかな物にしていた。
彼女は、妙に大人びた顔をして、じっと川を覗き込んでいた。
もう一人は、背中の中辺りまで伸ばした水色の髪を、
細く、後ろでひとつ結びにした青年。
こちらは、アダムより少しばかり年上だろうか。
後ろで結ばれた髪は、美しい空色。
それに対するように、瞳は、微かに銀を帯びた鉛雲のような灰色だった。
桃色の輝く彼女の隣に居て、彼も又、輝いて見える。

『フィーネにイアじゃないか。お婆さん達はいいのか?』

『………アダム…。』
『あぁ、アダムか。』
二人は、揃ってゆっくりと彼を振り返った。
言葉の割に、別段驚いた様子も見えない。
そんな二人に両手に持った桶を見せると、アダムはゆったりと首を振った。
風が吹き、川の向こうの背の高い草が揺れ、時間差でフィーネとイア。
それから、アダムの髪が舞う。

『さっき、主からお話があってね。』

イアは、慎重に言葉を選んでいるようだった。
視線が宙を泳ぎ、それから流れる川に向けられる。
川には、フィーネの髪のピンクがうっすらと映っていた。

―――主。

その言葉の重々しい響きに、つい背筋がぞくりと震えてしまう。
別段、怖れているわけではない。むしろ、敬っているくらいだ。
それなのに、どうしても、『主』と言う言葉に敏感に反応し、自然と体が震えてしまう。



―――それは、主が神だから?


そして、自分達を作った張本人達だから?



『それで……なんて?』
アダムが、絞り出すように言った。
彼の言葉に、イアは、微かに首を横に振ったようだった。

『アダムのところのおじいさん、もう短いって。』

『………。』
『…人間の命って、儚い。…アダム、気を落とさないで。』
突然、ずんと重い物がのしかかってきたようだった。
フィーネの言葉が、するすると通り過ぎていく。
何か言葉を発しようとして開けられた口は、そのまま閉じられず、ただ言葉を探し続ける。

『アダム。人間は、私たちとは、違いすぎる。』




海の神は、その一掻きから生まれた泡で、人間を作った。

空の神は、その厚い雲で、人間を包んだ。

大地の神は、その大いなる力で、人間を生かし、殺した。



ずっとずっとそう繰り返されてきた世界は、今更変えることはできないだろう。
変える力だって、ない。
けれども、どうしても、悔しい思いばかりが胸に溜まっていった。


『……神って、残酷だよな。』


だから、アダムは、儚い笑みを浮かべて、そう言うしかなかった。



「なぁ、じいさん。」
「…ん?どうした?アダム?」
「奥さん、いい人だった?大好きだった?」
昨日の夜から煮込まれたスープは、野菜に味がよく染み込み
、口の中でとろけた。その味をしっかりと心に刻みながら、アダムは口を開いた。
何度かぽたぽたぽたとスプーンからスープを流すと、
ふわりと、スープのいい香りが鼻に届いた。

「そうじゃな。いい人だったし、大好きだったよ。」

「生きていてよかった?」
「一体、どうしたんだい?アダム?」
「いいから。答えて。」
スプーンから落ちるスープを眺めるのをやめ、老人の方へと顔を上げる。
木製のスプーンを机の上に置くと、老人は彼に、穏やかに微笑みかけた。



「あいつにも会えたし、君にも会えた。ワシは満足しとるよ。」








―――数日後、老人は永い眠りに就いた。

それは、心地よい、秋晴れの日だった。







それからすぐに、アダム達はその村から姿を消した。
きっともう、村の人々は、彼らの事を、頭の…記憶の隅に追いやってしまっただろう。
そして、彼らが、それを引っ張り出すことも、もう、ないだろう。
村だって、同じ。彼らの存在していた跡を、村は、残してはくれないだろう。
今までずっと、同じ。彼らはそれを、何度も繰り返してきた。

「…なぁ、イア。フィーネ。」

「…ん?」
「……?」
ふわりと、フィーネの珊瑚色の髪が靡いた。
一際強い、風が吹いた。茶色い、古びたマントが、風に煽られる。
足を止めたアダムに呼びかけられ、イアとフィーネは彼の少し先で止まった。


「人間って、いいよな。」


「…何をとつぜ…。」
言いかけたイアの肩に、フィーネの細く、小さな手が乗っかった。
その向こうに、彼女の少し寂しそうな顔が見える。



「そうね、アダム。」



それに、神は、本当にみんな勝手。
彼女は付け足すようにそういってから、止めていた足を動かし始めた。
長いスカートが、彼女の動きに従って揺れる。
その様は、まるで、海の波の様に見えた。


「…それから。アダム。」


と、ふと何かを思いだしたかのように、彼女の足が、またぴたりと止まった。
几帳面に、同じ位置で、揃えて止められた細い足。

「間違っても、人間になりたいなんて思っては駄目。」

彼女にしては、よく喋るな。
どこかそんな考えを持ちながら、アダムはその言葉を、噛みしめた。
…彼女なりの、優しさなのだ。
彼らは、人間になりたいと思っても、その願いは報われない。





―――神が気まぐれで作った、分身なのだから。





見た目や力は、人間と変わりない。むしろ、同じ。
けれども、人間とは違って、彼らは、見た目よりもずっとずっと、長い時を過ごしてきた。
少し昔は、戦争の中を駆けていた。そのもっと昔は、平和の中を歩いていた。

そして、決定的な違い。
人間は失おうとし、彼らは得ようとしていた。



…彼らは、死という物を知らなかった。


「分かってる。フィーネ。」
「…アダムは、いつもそれだ。分かってる。分かってるって。」
だいたいね…。どうにも、イアの話は、これから長くなりそうだった。
まぁ、それも、いつものことのように、歩きながら聞けばいい。
長く短い旅の中、時に小さな村で足を止めつつ、また暮らしていけばいい。

「でも、私は、アダマーサよりアダムの方が好き。」

そっと、穏やかに微笑みつつ、フィーネは言った。
同意するかのように、イアも肩を竦めてみせる。
アダムは二人を見やってから、くくと笑った。



「俺は、アダマーサも好きだよ。」



途方もない祈りに近いけれども。
それでも、彼は、もう一人の自分を信じていた。主…アダマーサを。
「それに、主の仕事に口出しする気もないし。」





昔。誰も知らないほど、遠い昔。
3人の神が生まれた。


全てを生み出すレーベルフィーネが生まれた。

全てを包み込むイアリストゥルが生まれた。

全てを生かすアダマーサが生まれた。



海の神は、その一掻きから生まれた泡で、人間を作った。

空の神は、その厚い雲で、人間を包んだ。

大地の神は、その大いなる力で、人間を生かし、殺した。



そして、レーベルフィーネは分身を作った。

そして、イアリストゥルは分身を作った。

そして、アダマーサは分身を作った。



太陽と月は、ただ、全てを見守っていた。






「ただ、縛られるのは苦手…かな。」

珍しくアダムの漏らした苦笑に、二人はお互いを見て、そっと肩を落とした。
イアが、彼の小さくなった体を抱きしめる。
フィーネが、彼の苦笑を浮かべた頬を撫でる。

「俺達は、ずっと、一緒だから。」

「例え、何があっても。」

もしかしたら、何度かこういう事があっただろうか。
ただ、もう遠い過去過ぎて、思い出せない。
アダムは頬を撫でるフィーネの手に自分の手を重ねると、目を閉じて、頷いた。

「うん。…信じてる。」


―――それは、古からの約束だった。






end