闇色の魔女
一人の女性は、ぐっと、大地を踏みしめた。
久し振りに感じる、人間の姿での、地面の感触。
それは、猫の姿の時とは、やはり違うように感じた。
「ブライアン」
猫の姿をしている時よりも、心持ちはっきりと、彼女は男性の名を呼ぶ。
普段は、闇色の猫の姿をしている一人の女性。魔女。
ただ、その猫の姿は、彼女自身がそう決めてそうしているのではなく、他の魔法使いから受けた呪いの現れだった。
「どうしたんだい、エーヴァ」
「えぇ、呼んだだけ」
やってきた金髪の男性、ブライアンに名前を呼ばれて、彼女はその顔に笑みを浮かべた。
猫の姿では見られない、人間の姿での笑み。
それは全身に闇色をまとった彼女を、一層輝かせる。
「やっぱり、人間の姿って……良いわね」
だって、自分で何でも出来るんだもの。彼女はうっとりと自分の両手を眺めて、ほぅと、その艶やかな唇から息を漏らした。
その様子を見て、ブライアンが苦笑を浮かべる。
「エーヴァは、猫の姿が嫌いなの?」
「嫌い」
「どうして?」
彼の言葉に、エーヴァが即答する。
彼女の答えに臆することなく、ブライアンは問いを続けた。
エーヴァはそれに一瞬だけ考える仕草をすると、それから首を横に振った。
それに合わせて、彼女の黒い巻き毛が揺れる。
「考えられない。あの姿が、好きだなんて」
少し自嘲を含めた、彼女の答え。
エーヴァの答えに、彼女に先を促すようにして、ブライアンは一度、小さく頷いた。
「あれは、たとえ姿が可愛くても、呪いなの。
あたしにとってそれは、苦痛以外の何物でもない。他の魔法使いに負けた証。
そしてそれは、あたしを捕まえ、巻き付き、放さない。呪い。
これのせいであたしは、魔女なのに、今じゃ満足に魔法さえも使えない」
エーヴァが小さく舌打ちする。
黒いマニキュアが塗られた右手の親指。その爪の先をカリカリ噛みながら、エーヴァはブライアンを睨み付けるようにして見た。
「体験してみれば、分かるわよ」
この、苛立ちが。エーヴァは相変わらず爪の先を噛みながら、けれどもブライアンへ向けている表情をゆっくりと変えていった。
――どこか、嘲笑を思わせる笑みへ。
「でも……猫の姿だからこそ、良いことだってあるだろう?」
「良いことですって?」
「たとえば……」
ブライアンは右手の人差し指を立てると、ちょっとだけ、首を右に傾けた。
そうして、怪訝な表情を浮かべる女性に対して、優しげな笑みを浮かべる。
「僕の僕の恋人、僕の弟子や僕の弟に会えたこと」
「……」
「君にとってこれは、良いことではない?」
「……馬鹿らしい」
ブライアンの言葉に、エーヴァはつんとそっぽを向いてしまった。
そのまま体もそちらへ向け、部屋を出るべく歩き出す。
「でもね、エーヴァ」
呼び止められて、エーヴァはぴたりと足を止めた。
そのまま、顔だけブライアンを振り返る。
「少なくとも僕は、君と会えて良かったと思う」
「ほんっと、あんたって、よくもまぁそんな恥ずかしいことを軽々と……」
「ずっと見てたのが、素直じゃない師匠だから?」
「どーせあたしは素直じゃないわ」
エーヴァはくるりと出口へ顔を向け直すと、また歩き始めた。
……その頬に、うっすらと朱が乗っている。
「……ほんと、馬鹿みたい……」
部屋の出口をくぐり抜け、曲がった途端。小さくなった、その体。
真っ黒い毛に覆われた手を眺めて、エーヴァは溜め息を漏らした。
「でも、それが幸せってやつなのかしら?」
猫になった魔女に、答える者は誰もいない。
ただ、その答えは、彼女の胸にそっと、生まれ出た。